ハワイ王朝物語り

  ハワイ王朝を語る時、ハワイ王朝史無しには語れません。
純粋で穢れを知らない生粋のハワイ人の王朝の華々しくも哀しい栄枯盛衰の物語です。
偉大な英雄のカメハメハ大王によって築かれた王朝は、王国の植民地化を狙う西欧の列強に狙われながらも、約100年の間、代々の王様による懸命な努力で存続しましたが、結局、アメリカに合併されて、王朝は消えてしまいました。
果たして、ハワイはそれで良かったのでしょうか?

このツアーは、200年ばかりタイムスリップをして、ハワイの懐かしい時代を考証します。カメハメハ3世王の時代に、一時王権をイギリスに奪われた事がありましたが、幸いに王政復古する事が出来て、其の祝賀パーティーで王様が言った格言があります。

“ウアマウ ケエア オカ アイナ イカポノ”(国家の生命は正義によって守られる)

然し、ハワイ王朝は崩壊されました。
この物語りの時代は、日本の江戸末期から明治初期の時代に当たり、日本の開国を狙う西洋列強との外交折衝が困難な時代でした。幸い、維新の傑出した人材の努力により、日本は無事国際社会に船出ができました。


ツアーのポイント

  勇猛で賢明なカメハメハ大王は、約1万6千人の軍勢をカヌーに乗せてこのオアフ島のワイアラエ海岸に押し寄せたと言われます。ツアーの最初のストップは、この絵画を見下ろすダイアモンドヘッド展望台です。大王の後を受け継いだ二世王以下五世王までは、カメハメハ大王の威光で、何とか王朝を保持できました。4世王の時代はイギリスや西欧との親交が深く、王朝時代の中で一番華やかな時だったと言われます。閑静な別荘風のエマ女王夏の宮殿を見学して当時の生活を偲びます。
選挙と議会の承認を得て王様になった六代目、七代目、そして最後の八世女王までの王権維持は非常に困難を極めました。議会の勢力が強くなったからです。
そして男性最後の王となったカラカウア王が、王朝の威厳をしめすイオラニ宮殿を建立したものの、最後のリリウオカラに女王の時、王位剥奪という事件が起こり、王朝は崩壊し、アメリカとの合併が行われました。悲劇の舞台になったイオラニ宮殿のツアーがクライマックスになります。リリウオカラニ女王が、 イオラニ宮殿に幽閉された時に完成したと言われるアロハオエに秘められた女王の悲しみが胸を痛めます。

 

古代ハワイとは

  ご存知のように、ハワイ人はポリネシア人の一種族と言われます。一体何時ごろからハワイに来たのでしょう?
西暦前にいわゆるポリネシア人の大移動があった事が知られていますが、何故
東に向かって移動したのでしょうか?本能的に海洋術にたけていたポリネシア人は新しい天地を求めて太平洋の各諸島に散らばって行きました。彼等は、太陽、雲、渡り鳥,潮の流れた波、夜は星座により航海した言われています。未知の島を求めて、地図も何の情報も持たず、航海したのですが、途中、色々な危険や災難にあって多くの人々が犠牲になったにも拘らず、東へ南へと進路を取りました。
こうして、西暦100年から200年頃、日本では卑弥呼の時代に、その一部の部族がこのハワイを発見したと言うより、ハワイに辿り着き、生活を始めました。この、ハワイ最初の定住者をメネフネ族と呼んでいます。平均して背が低かったので、後年、小人族とも呼ばれ、彼等が、非常に器用で、且つ、勤勉で、団結して、家や池、船や社などを大勢で一晩のうちに造り上げてしまうと言われたところから、魔法使いの小人と伝説では伝えられています。今でも、ハワイには、メネフネが作ったと言われる池や養魚地が残っています。
それから、約800年ほどの年月が経って、今度は、南のタヒチ方面から第二回目のポリネシア人の移住がありました。西暦1100年から1300年頃で、
日本では、1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開いた頃です。
この移住者は、既に宗教を持ち、階級制度で部族の統制を取っていたソサイエティー諸島の一部族でしたが、新興の部族が、争に勝って、新しい宗教を強制した為に、従来の宗教を持っていた部族が新天地を求めてこのハワイに移住してきたのでした。その時に、生活に必要な、植物、犬、豚、鶏や製紙ようの桑の木等を持ち込んだと言われます。戦争を知っている新移住者は、平和なメネフネ族を隷属させるようになり、彼等が持っていた階級制度を敷いて、各島に王様が出来て夫々の島を統治する体制が出来ました。階級制度とは、上に、神、次にアリイ・ヌイ(王)やアリイ〔王族〕その後に、カフナ(神官や薬師、魔術師、航海士等の特技者の階級)、兵士、平民からなり、それをカプーという厳しい戒律で保持していました。カプーには、王の影を踏んだら死刑、女性は男性と一緒に食事を出来ない、一定時期に魚を取る事は禁止とか、色々厳しい罰則が課せらたものがありました。厳しいカプーでしたが、それに抵触しない限りは平和な生活を保障されており、一般人は、結構楽しく生活していたと言われます。
やがて、各島の王様同士の勢力争いが始まります。ハワイの戦国時代です。その頃、ハワイ中で一番勢力を持つと云われる、カへキリ王がマウイ島に出現し、
隣島のハワイ島のカラニオプウ王と始終戦争をしましたが、いつもカへキリ王が優勢だったそうです。
このような時、1758年に有名なカメハメハ大王〔幼名をパエア〕が出生しました。彼が20代の時、イギリスのキャプテン・クックがハワイを発見し、世界にハワイの存在が知られました。


キャプテンクックの物語り

  1728年、ジェームス・クックはスコットランドの貧しい農家に生まれました。27歳で海軍に仕官し、それまでの経験と才能を活かして、まんまと海軍艦長に抜擢されました。1768年に金星観測のためタヒチを基地として南太平洋上を航海しました。
1778年、キャプテン・クックが「レゾリューション号」でクリスマス島を発見した後、北上してオアフ島を発見し、その後にカウアイ島を発見し、上陸して、住民から水や食料を釘や鉄片との交換で得ました。鉄を欲しがった住民の一人が船に盗みに行って、水兵に鉄砲で撃たれた事件がありましたが、これでキャプテン・クックは神として畏れられるようになりました、
その頃の言い伝えで、収穫の神のローノが、木が生えている浮島に乗って、各島にくるので、豊穣を感謝して、神のローノに奉げものをする慣わしがあったそうですが、沢山のマストを持つ帆船は、遠くからみると浮島のように見えたのでしょう。こうして、クックは、ローノとして祭られ、色々な貢物を貰う事になりました。
キャプテンクックは、一旦帰国し、発見したハワイ諸島を、彼のスポンサーであったサンドイッチ卿の名をとってサンドイッチ諸島と名付け、世界に発表しました。
キャプテンクックは、再び、ハワイに戻り今度はマウイ島の東海岸に投錨しましのローノと信じ、貢物をしたりして歓待しました。船は、マウイからハワイ島に移動し、1789年にケカラケクア湾に投錨しました。その頃のハワイ島のカラニオプウ王はキャプテン・クックを良くもてなし、貴重な羽毛で作ったクロークを捧げ、お返しにリネンのシャツや剣や、工具をもらったりして平和な関係が続きました。一旦、帰国するためにケアラケクア湾を出発してから、マストが一本折れているのを見つけ、修理のために再びケアラケクア湾に帰って来ると、神として貢物を送っていたハワイ住民も、キャプテン・クックが本当に神であるのか疑いを持ち始めました。その時、船に付いているボートが一艘盗まれる事件が起こり、怒った、キャプテンはカラニオプウ王を船に呼びつけ、ボートのありかを知らせるように命じました。鉄の釘を欲しがった住民がボートをばらばらにして仕舞った事を知っている王は、ボートのある所に案内するからと言って、キャプテンと鉄砲を持った水兵を連れて船を下りました。王を見た住民は、一斉にキャプテン一行に襲い掛かり、その一人がキャプテンの腕をつかんで引き倒しました。倒れたキャプテンを見て、神でなく人間である事を知った住民は、益々怒ってキャプテンを打撲し殺して仕舞いました。慌てて、水兵が発砲し、又、船からも大砲で応戦した為に住民は、キャプテン・クックの死骸を担いで逃げ散りました。カラニオプウ王は、キャプテン・クックの死骸を生贄として神殿に捧げました。残った、水兵達は仕方なく本船に帰り、カウアイ島経由でアメリカに向かって海の彼方へ消えて行ったと言うことです。こうして、世界の秘境であった島のベールを剥いだ探検家のキャプン・クックは、ハワイの神の祟りにあった様に悲壮な運命を辿りました。
然し、彼の発見で、西欧列強の船が頻繁に渡来し、ハワイは急激に近代化されて行くのですが、彼等が持ってきた忌まわしい病に罹って、免疫性の皆無なハワイの住民は、どんどん倒れ、その数を激減して行きました。


ハワイ語

  ハワイの飛行場に着いてから再び飛行場か出発するまでに何回「アローハ」とか「マハロー」という言葉を聞きますか?
最近こそ、あまり聞かれなくなったかもしれませんが、それでも、ハワイに住んでいる人々の間では頻繁に使われるハワイの言葉です。
「アロハ」は親愛の挨拶の言葉、愛の言葉、別れの言葉ですが、昔のハワイ人の間では、テレパシーのような魂の事を意味しています。自分の体の中にある魂が、電流のように相手の身体に伝わるのです。「心からもてなす」と日本で言いますが、これは「アロハ」の表現です。
1820年頃までは、ハワイには言葉はあっても字がありませんでした。その為、昔の事や歴史は、「語りベ」と言う特殊な職業の人がいて、ずーっと昔から代々「語りベ」が語り継いできました。いわゆる「口授」の歴史ですね。
1820年にアメリカのマサチューセット方面から来た、キリスト新教の宣教師は、住民に布教をするためにハワイ語を作り、その聖書を作ったと言われています。これで、口授が文章になった訳です。現在、昔のハワイに関する情報が色々な本になっています。さあ、ハワイ語のアルファベットを習いましょう。
ハワイ語は日本語のように母音が必ず付いた言葉です。即ち、A、E、I、O、Uの5母音と、H、K、L、M、N、P、Wの7子音からなります。
少し、簡単なハワイの言葉をご紹介しましょう。

アローハ
お早う、今日は、愛してます、さようなら
アイカネ
友達
カネ
男、夫、紳士
ワヒネ
女、妻、淑女
アリイ
王族、貴族
ヘイアウ
寺院、神殿
ハレ
家、御殿
ハナ
仕事、労働
フラ
踊り
カフナ
僧侶、神官、薬師、技能者
カマアイナ
原住民、先住民、土地者
マリヒニ
新参者、ゲスト、他所者
カプー
タブー、戒律、規則
ケイキ
子供
クプナ
年寄り
メレ
詠唱歌
パウ
終了、完成
パウー
スカート
カウカウ
食べる事
モイモイ
寝る事
ホロホロ
散歩、ぶらぶら歩く事
エオルオル
どうぞ

等等。一度、ハワイの人に語りかけてご覧なさい。きっと、親しみのある言葉が返って来るはずです。そうなったら、貴方は既にカマアイナ(ローカル)です。

 

ハワイと日本との関係と日本移民

  ハワイ王朝を築いた最初の王様カメハメハが生まれたのは1758頃と言われ、日本で言えば、6代の徳川将軍吉宗が死んで後を継いだ将軍家重の頃でした。
ご承知の通り、徳川幕府は鎖国令を敷いて、海外との接触を一切禁止していましたが、近海に漁に出た船が嵐や暴風にあって転覆し殆どの漁師は帰らぬ人となりましたが、中には太平洋上を漂流している所を通りかかった外国船に救助されたり、難破した船に乗ったまま流されて遠くの島々に漂着した人もいたかも知れません。
ハワイは日本とアメリカ大陸の真ん中にあるため、キャプテンクックにより1778年にハワイが発見されて、中国に行く航路が出来て、北太平洋を航海するために、ハワイに寄港する船が多くなっていました。
カメハメハ3世王の時代の1841年に、ジョン万次郎が無人の小島に漂流した時、運良く通り掛かったアメリカの捕鯨船に救助されてハワイへ連れて来られました。時に万次郎は14歳で仲間の漁師4人と共にハワイへ上陸しました。万次郎は才能があり、語学も早く覚えたので船長らに可愛がられ、アメリカの本土に連れて行かれて勉強し、後に江戸に帰り通訳となって日米交渉に貢献した事は有名です。後年、1860年に、咸臨丸でアメリカへ遣米使節に通訳としてお供したが、その帰途、ハワイに寄り、勝海舟、福沢諭吉達と共に、時のカメハメハ4世王に謁見しています。特に4世王は、日本人の事を好み、日本との修好条約を締結する意思があった云われます。急激なハワイ人人口の減少で、王朝は、中国、ポルトガルなどにも移民を求めましたが、結果が思わしくなく、勤勉で正直な日本人の移民を強く要請したのですが、幕末の混乱期で、交渉が纏まらず、1868年に、明治政府が確立する寸前に、パスポートを取りイギリス船の「サイオト号」を仕立て、約150人の日本人をハワイに連れて来ました。これが「元年者」と言われる最初に移民でした。この人達の労働条件は悪く、馴れない土地で、安賃金で馬や牛のように過酷な労働を強いられたそうです。この状況に、明治政府は使節をハワイに送り、待遇改善をハワイ側に要求しました。ハワイでは砂糖産業用の農民が益々不足し、第7代目の
カラカウア王の時、世界旅行の途中に明治天皇に拝謁して、移民のお願いをしました。カラカウア王は、力を失って行くハワイ王朝の将来を憂慮して、日本皇子とハワイ王族との婚因、アジア連盟の盟主を天皇になって貰う事等のお願いをしましたが、結局、明治政府は移民の許可だけを出しました。1885年から始まった移民を官約移民と呼び、1894年まで続きました。その後は、各人が自分で農耕主と交渉して労働条件を決める私約移民時代になります。この間に、ハワイ王朝は1893年にリリウオカラニ女王が退位し、王朝崩壊し、ハワイ共和国になり、日布修好条約が成立しました。1898年にアメリカとの合併となり、ハワイの法律的な問題は、米国政府との交渉になりました。
1900年にアメリカの移民法が適用され、契約労働が禁止されました。
1904年、日露戦争勃発し、国際情勢は刻々と変化します。
1908年、日本はハワイへの新規の移民渡航を禁止し、所謂、呼び寄せ時代が到来します。即ち、親類や親子の呼び寄せだけが許可された時代で、写真結婚等があった時代でした。こうして、日本とハワイとの関係は、昔のように、日本対王国の関係から、アメリカの一州との関係となりました。
1941年〔昭和16年〕に始まった日米戦争で、ハワイの日本人は苦難の時代を迎えましたが、終戦となり、州となったハワイに於ける日系人の活躍は目覚しいものがあるのは周知の通りです。

 

神父ダミアン

  ハワイ州庁舎の玄関前に立っている黒っぽい銅像について知っている日本人は余り多くありません。1969年の州庁舎と共に完成しました。何故、ハワイの州庁舎にと疑問を感じる方が多いと思いますが、彼のハワイ人民に与えた功績は筆舌に尽せません。ハワイに渡来した外国人の内でも中国人が持ち込んだ 業病の中でもハンセン氏病(昔は、らい病と言われました)は難病で、免疫性の無いハワイ人にどんどん感染して行きました。病気が進むと体の部分が変形したり腐り落ちて行く業病に感染した病人を家族、友人、貴族に持った悲劇は大きな社会問題引いてはハワイ王国の悲哀でした。心を痛めたカメハメハ5世王はモロカイ島に隔離する事を考え、1866年に隔離所を設置しましたが、愛する親や子を家族から引き離して隔離する事は受け入れられなかったようです。隔離施設と言っても名ばかりで、建物も何も水も無く、山の洞窟に住み、水は雨水を貯めるという有様でした。従って、そこに病人を隔離する事は地獄に置き去りするようなものでした。その頃、ベルギーから来た神父がいました。名前をダミエンと言い、カソリック教の布教のためにハワイ各島を回っていましたが、モロカイ島の隔離所の事を聞くと、進んでその奉仕を志願しました。1873年神父はモロカイに到着しましたが、状態は想像以上だったと言われます。島に連れて来られた病人から金銭その他を一切強奪したり、女子供を虐待したりという無法の社会で、療養どころではなかったようです。神父は、病人の看病をする傍ら、福音を説き、病人やその家族達を激励して、教会を建て住む家を建てました。又、ハワイの政府に働きかけ、薬、医者、食料等の補給を要請し、施設の改善に尽しました。そのお陰で、隔離所も徐々に改善されて 行きましたが、無理が祟って、1888年にハンセン氏病に罹り、翌年の1889年に死亡しました。 1977年、時のローマ法王ポール6世により、ハワイの病人を看護し、福音を与え、その環境を改善したが、最後に羅病して殉死したと言功績を讃えて、カソリックはダミエン神父に聖人の一歩前の位を与えました。 命を賭けてハワイ人の福祉に尽したダミエン神父の徳を讃えて、この銅像が建てられたそうです。

 

王朝の系図


ハワイ王朝略史

カメハメハ一世大王 在位 (1810−1819)

幼名をタマアマア・パエアと言い、1758年にハワイ島南北端のコハラと言う所で生まれました。成人して、王族争いの後、ハワイ島を統一して王となりました。更に、1795年にオアフ島に上陸し、オアフ島の王のカラニクプレを滅ぼし、1810年、カウアイ島の王のカウムアリイの帰順を待って全島統一し、ハワイ王朝を開きました。イギリスを始め、西欧諸国が持ち込んだ西洋文明を徐々に受け入れながらも、古代の宗教や戒律を守って国を治めましたが、
1819年、病に倒れてコナで大往生しました。その頃の習慣により、大王の亡骸は家来によりどこかに葬られ、未だに行方が謎になっています。

カメハメハ2世王  在位(1819−1824)

1779年、由緒正しい妻のケオプオラニにリホリホ王子が誕生した。カメハメハ大王により、王位継承者となり、1819年に大王が死亡した時、カメハメハ2世王として宣誓しました。大王の遺言で、カアフマヌ王妃が摂政となり政務を補佐した。大王の死後、古代宗教や戒律は放棄されて世の中が乱れました。1820年にボストンからキリスト新教の宣教師が渡来し、布教と文明推進が行われました。彼等が教えた文字で最初のハワイ語聖書が出来ました。
1823年、カメハメハ2世王は、奥方のカママル女王と共に、イギリスへ渡航し、イギリスの王室に大歓迎を受けましたが旅先ではしかに罹り、免疫性の皆無な二人は、1824年、望郷の念を抱きつつロンドンで病死したと云われます。1825年二人の柩はイギリスの軍艦で丁重にハワイまで運ばれた。

カメハメハ3世王  在位(1825−1854)

幼名カウイキアウオリと云い、リホリホ王子の弟として、1814年に誕生しました。
1825年、兄カメハメハ2世の訃報を聞いて、カウイケアオウリ王子は11歳でカメハメハ3世王として宣誓し、カアフマヌが摂政となって補佐する事になりました。
宣教師達より政治や法律の知識を得て、1840年、ハワイで最初の憲法を作成し、発布しました。こうして、ハワイは君主制立憲国家になったのですが、植民地化を狙う西欧列強とのトラブルが続きましたが、この時代は、産業が一番栄えた時代で、捕鯨業そして次に砂糖黍農業が盛んになりました。
歴代の王様の中で在位期間も長く、一番近代化が進んだ時代を何とか乗り越えたカメハメハ3世王も、1854年にこの世を去りました。

カメハメハ4世王  在位(1854−1863)

1834年、カメハメハ大王の娘のキナウの子供として出生した。幼名をアレキサンダー・リホリホと名付けられました。
1855年にカメハメハ3世王の跡を継いでカメハメハ4世王になり、ジョン・ヤングの孫であるエマ・ルークと結婚しました。二人とも親イギリス派だったので国民から非難された事もありましたが二人は非常に教育があり、お洒落でヨーロッパの貴族と親交を保ちました。
1858年、アルバート王子が誕生しました。カメハメハ大王の血筋を引くハワイの王子として非常に期待されましたが、アルバート王子が4歳で亡くなると、王は、そのショックで病気になって回復の気力もなく1863年に死亡しました。

カメハメハ5世王 在位(1863−1872)

"カメハメハ5世王は4世王の兄として1830年に出生、幼名をロット・カメハメハと呼ばれました。
1963年に4世王の死により、跡を継いでカメハメハ5世王になりました。
5世王は4世王と違って、知的ではありませんでしたが、精悍で、国民とよく話をしたりして親しまれていました。
1866年、其の頃、ハワイの人口の減少の一因になっているらい病の患者を隔離するためにモロカイ島のカララオに敷地を設けました。
カメハメハ5世王は生涯独身で、後継者としてカメハメハ大王の直系のバーニス・パウアヒ王女を希望しましたが、断わられて、1872年後継者が決まらぬままにこの世を去りました。ここで、カメハメハ大王の血筋を引く王様が絶えて仕舞いました。

ウイリアム・チャーレス・ルナリロ 在位(1873−1874)

ルナリロは、貴族のカナイナとカメハメハ3世王の時の宰相を務めたケカウロウヒの間に1832年に生まれました。
貴族として教養があり、身体的に強いほうではなかったが、知的な青年として人気がありました。
カメハメハ5世王が王の跡継ぎを決めずに亡くなったので、ハワイ王朝始まって以来の選挙により、1873年、ルナリロが6代目の王に選ばれました。王は、その頃広まったライ病によるハワイ人口の著しい減少を懸念して、特別の保険局を開き、病気の広がりを恐れてモロカイ島への隔離を奨励しました。病身の王は、ハワイの老人の保護に関心を深め、自分の財産を投げ出して老人施設を作ったりハワイ人の福祉に尽力しましたが、持病の結核が進んで、在位期間1年足らずで1874年に病死しました。

デイビッド・カラカウア 在位(1874−1891)

生まれは他の王達と違いカメハメハ大王の血筋でない貴族の父シーザー・カパアケアと母のアン・ケオホカロレの間に1836年に生まれました。
ルナリロ王の死により、選挙が始まり、カメハメハ4世王のお后のエマを破って、選挙に勝利を得て、1874年に王位に付きました。性格は陽気でインテリジェンスもあり、特に音楽に造詣深く、ハワイのカルチャーの発展に力を注いだりして国民に愛されました。
王は、1881年に王位継承者である妹のリリウオカラニに留守を頼んで世界一周の旅に出ました。途中、明治天皇に拝謁し、砂糖黍産業の農耕移民の要請と、姪のカイウラニ王女と日本の皇族の男子との婚因を天皇に奏上しました。
帰国後、1883年、即位後9年目に、完成したイオラニ宮殿で戴冠式を挙行しました。
1887年、カラカウア王は強制的に新憲法に署名させられ、それにより、殆どの王の権力が削がれて仕舞いました。晩年のカラカウア王は、健康を損ね、療養のためにカリフォルニアに転地したが、1891年にサンフランシスコでその生涯を閉じました。

リディア・リリウオカラニ女王  在位(1891−1893)

1838年に出生したリディアはその頃の習慣で、位が高いパキとコニアの許に養子に出された。この夫婦には一人娘のバーニス王妃がいたので義姉妹関係になりました。1862年、意中の人であるジョン・ドミニスと結婚しました。
1891年に実兄のカラカウア王の死去により、ハワイ王朝第八代目の女王となりました。
王権の回復とハワイ人に参政権を与える為に、1893年、女王みずから草案した憲法の批准を閣僚に迫りましたが、失敗に終わりました。反王政派は、臨時政府を開き王制の廃止を求めました。対立が騒乱に発展する危惧から、女王は、新憲法の発布を断念し、女王の権限を一時放棄すると宣言しました。
1895年、親王制派がクーデターを起しましたが、失敗して200人が逮捕される事件が起こって、女王は、クーデターの首謀者として逮捕され、宮殿に幽閉されました。幽閉中に、臨時政府は女王に廃位を求める書類を作り、女王が署名したため、ハワイ王朝は崩壊しました。
有名な「アロハオエ」は、1878年に女王が作詞し、幽閉中に作曲を完成したと言われます。
平民となったリリウオカラニ・ドミニスは、宮殿を出て、亡夫の家のワシントンプレースに住み、晩年、ハワイ王朝の歴史をまとめ、自らも著書を出したりして静かな生涯を1917年に閉じました。

王朝時代のハワイ人の健康と人口推移

ハワイの伝統的な考えは、もの全てに生命や価値があり、全てのものが血で繋がっているというのが基礎になっています。従って、神も人も環境もその関係が上手くバランスが取れている状態を“ポノ”と云い、これがハワイ人の幸福、健康、平和の基本的な考えになっています。もし、このバランスが崩れると不幸、病気になるといわれます。
ハワイ人は、白人のキャプテンクックによりその存在を発見される前までは、活動的で、自然のバランスの取れた食事を取り、殆どの無菌状態の健康な生活をしていたのですが、海外から人間が渡来し始めると、この理想的な状態は、忽ち崩壊されました。
船員たちが持ってきた病気は、殆ど免疫のないハワイ人の間に広まり、老若男女を問わずばたばた病に倒れて死んで行きました。その頃、世界的に広まった病気は、性病、疱瘡、天然痘、ペスト、らい病(ハンセン氏病)で、そのいずれもこの無抵抗なハワイ人に猛威を振るいました。
一般の平民だけに限らず、王族の間にも蔓延し、代々の王様を悩ませました。
カメハメハ4世王とエマ女王はクイーン病院を建て、カピオラニ女王はカピオラニ病院を建ててハワイ人の健康増進に尽力しましたが、王朝の崩壊当時には、カメハメハ大王当時にあった人口の10分の1近くに減っていました。

ツアースケジュール

9:30
ホテル出発 ― カピオラニ公園 ― ワイアラエビーチ(下車)― ベレタニア通り ― クイーン通り ― ダウンタウン ― ヌアヌ街 ― 王朝墓地 ― エマ女王夏の家(下車) ― イオラニ宮殿
11:30
イオラニ宮殿内のツアー
13:00
昼食
13:30
イオラニ宮殿出発
14:15
ワイキキホテル到着

(上記のスケジュールは、多少変更される場合があります)

ツアー料金

大人:12歳以上 $79
子供:11歳以下(注) $65

上記料金は全行程のバス料金、ガイド料金、クイーンエマ夏の家入場料、イオラニ宮殿入場料、軽食と飲み物を含みます。
(注)5歳以下のお子様はイオラニ宮殿への入館が制限されている為、ツアーに参加することができません。


日、月曜日を除く毎日催行

ホテル送迎時刻表

ホテル名
お迎え場所
お迎え時間
アラモアナ マフコナ通り玄関
8:50
アンバセダー 正面玄関
9:05
イリカイ・ホテル アラモアナ通り正面玄関
8:55
オハナ・マイリ・スカイ・コート 正面玄関
9:00
カイマナ・ビーチ・ホテル 正面玄関
9:05
ザ・カハラ 正面玄関
8:40
シェラトン・モアナ・サーフライダー 正面玄関
9:15
シェラトン・ロイヤル・ハワイアン 正面玄関
9:20
シェラトン・ワイキキ Don Ho Lane Van Dep
9:10
ハイアット・リージェンシー コア通り玄関前
9:20
パシフィック・ビーチ・ホテル 正面玄関(アロハ・センター横)
9:25
ハワイ・プリンス 正面玄関
8:50
ヒルトン・ハワイアン・ビレッジ ヒルトン・ハワイアン(タパタワーバス乗場)
9:00
マリオット Paoakalani Front
9:30



Copyright 2007 by Hawaii Ocean Promotions